@article{oai:kunion.repo.nii.ac.jp:00000507, author = {劉, 潤 and Liu, Run}, journal = {音楽研究 : 大学院研究年報}, month = {Mar}, note = {旧満州国は(以下は満州国と略称する)、中国東北部で、戦時日本帝国の生命線と呼ばれる旧植民地傀儡国家であった。満洲国の存在した13年5ヶ月の間(1932年3月1日から1945年8月18日まで)に、その広大な土地に、大量の工業、商業、娯楽·観光施設、文化施設などの基礎建設が行われた。1920年代から60年代にかけては、ラジオ放送の黄金時代であった。満州国のラジオ放送事業はその時代においては、国としての形を備える中で、メディア宣伝の利器として必要不可欠なものになった。しかし、これまでの満州国のラジオ放送における研究は、国策宣伝、伝播によるプロパガンダなどに焦点が当てられたものが多く、文化メディアに関しては解明されている点は少ない。中でも満州ラジオ放送における、娯楽番組としての流行歌に関する研究は特に少ない。本研究は、満州国のラジオ放送によって伝播した流行歌における放送と普及情況を考察して、当時のラジオメディアによるポピュラー音楽(流行歌)と社会の経済、文化、政治などの関係を解明することを目的とし、満洲国のラジオ放送における流行歌について、流行歌の放送内容(1938年/1939年)、聴衆者の普及(1942年まで)に着目して分析する。第1節では、満州電信電話株式会社の成立と活動展開について概観する。1933年に満州電信電話株式会社が成立すると、満州の電信・電話・放送事業を独占した。1936年には第一放送で日本語の放送、第二放送で満語の放送という、言語別の二重放送が堂々と開始された。1942年になると、既に満州全域の主要な都市に放送局が設置され、そのすべてが二重または三重の放送を行っていた。満州国のラジオ放送事業の急速な建設は、人々の満州国に対する国家意識を強める国策宣伝が目的であったが、それは同時に、民衆にラジオによって、娯楽番組としての流行歌を鑑賞する基礎を提供したと考える。第2節では、満州国ラジオ放送における流行歌放送の状況を考察する。現存する二巻の『満洲放送年鑑』(昭和14年度/15年度)から、第一放送が放送した流行歌は、基本的には日本の歌謡曲で、第二放送のそれは、基本的に当時上海の流行歌であったことが分かる。また、日本人に満洲文化をよく知らせるため、第一放送も在満日本人、及び日本の国民に中国大陸風の流行歌を積極的に伝えた。第3節では、満洲国のラジオによる流行歌の伝播状況を明らかにするために、白戸氏の研究データに注目して、当時(1940年まで)実施された複数の聴取率統計を比較検証し、そこに「満州国の流行歌における聴取」の持つ意味を検討する。その結果、1940年(昭和15年)までに、聴取者の民族間の差は解消されたが、地域、職業間の差はまだ残っていたことが分かった。これも当時、流行歌はラジオによる普及する困難となった。今後は、「満洲国のラジオ放送における流行歌」という研究を完結させるため、中国語文献も含めて、満州国14年間の流行歌放送内容を分析することが必要である。また、満州国の音楽産業と社会政治、経済、そして文化の関係を明らかにするために、音楽自体の歌詞、曲に対する分析、流行歌放送時間、そして流行化放送と広告放送の関係などについての検討も必要だと思う。, 8, KJ00009835006, 研究ノート}, pages = {98--91}, title = {旧満洲国のラジオ放送から見た流行歌の普及状況 : 昭和10年代を中心に}, volume = {27}, year = {2015}, yomi = {リュウ, ジュン} }