@article{oai:kunion.repo.nii.ac.jp:00002232, author = {宮入, 恭平 and Miyairi, Kyohei}, journal = {研究紀要, Kunitachi College of Music journal}, month = {Mar}, note = {これまでも音楽は、芸術の名のもとで、無垢で純粋な存在として語られてきた。その一方で、体制に抗う手段として、その粗野な存在が描かれもしてきた。しかし、たとえどのような音楽であれ、資本主義の枠組みから逃れることはできないという事実を目の当たりにすることになる。もちろん、それを否定的(あるいは悲観的)にとらえることもできれば、肯定的(あるいは楽観的)にとらえることもできる。本稿では、イギリスの批評家、マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』、『わが人生の幽霊たち』、そして、遺稿となった未完の「アシッド共産主義」における議論に注目しながら、資本主義リアリズムのオルタナティブとしてのアシッド共産主義への転回の過程を考察する。そこから、現在の新自由主義的な後期資本主義社会における音楽文化の立ち位置が明らかになる。}, pages = {165--174}, title = {若きカート・コバーンの悩み}, volume = {54}, year = {2020}, yomi = {ミヤイリ, キョウヘイ} }