@article{oai:kunion.repo.nii.ac.jp:00002209, author = {高徳, 眞理 and Takatoku, Mari}, journal = {音楽研究 : 大学院研究年報, Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music}, month = {Mar}, note = {本研究は、クロード・ドビュッシーの歌曲集《雅やかな宴》第2集(1904年作曲、出版)の第1曲〈初々しい人たち〉、第2曲〈半獣神〉、第3曲〈感傷的な対話〉の音楽語法を分析し、歌曲集のチクルス性を考察することを目的とする。尚、紙面の都合上、研究を「前編」と「後編」に分け、「前編」では詩集の構成に呼応したチクルスのナラティヴ性について述べ、第1曲〈初々しい人たち〉、第2曲〈半獣神〉の楽曲分析を行う。チクルスのテーマに深く関わる第3曲〈感傷的な対話〉の楽曲分析とチクルス全体の音楽的な関連性は「後編」で扱う。 《雅やかな宴》第2集は、ドビュッシーが20年以上取り組んだポール・ヴェルレーヌの詩集『雅やかな宴』への歌曲創作の最後を飾るチクルスである。詩集『雅やかな宴』は、18世紀貴族たちの歌や踊り、恋の駆け引きや秘め事を楽しむ享楽的な宴が題材で、22の詩は一つの大きなストーリーを構成している。詩集のテーマは「不毛の愛」であり、華やかに催される宴とは裏腹に、恋人たちの愛は次第に失われ、最後の詩「感傷的な対話」では幽霊となった恋人たちが「死して尚、分かり合えない」という悲しい結末を迎える。詩集のテーマを深く理解したドビュッシーは、詩集と同じように最後の詩「感傷的な対話」を3曲目(最後の曲)に配置し、愛が誕生し、愛は次第に失われ、最後に悲劇を迎えるという詩集のストーリーを反映させた3つの曲でチクルスを構成している。このような構成は《雅やかな宴》第1集には見られず、第2集で初めて意識されたものである。 Louis Laloyが「この歌曲集からドビュッシーの音楽語法は変化した」と指摘する通り、歌曲集における語法の変化は顕著である。〈初々しい人たち〉と〈半獣神〉において、ドビュッシーの「一つひとつの音」へのこだわりは非常に強くなり、それまでの豊かな和音は姿を消し、長3度、増5度、増三和音といった2つ、ないしは3つのシンプルな音程間の響きに関心が移る。特に〈初々しい人たち〉では、核となる「長3度」を重ねて使うことで本来の響きを変容させるなど、音程間の響きへの新たな創意工夫が行われている。また、全音音階への新しい試みが見られ、重要な語句を際立たせるための限定的な使用ではなく、楽曲を構成する枠組み、基盤として使われている。長3度の積み重ねにより変容した響きや全音音階は、「不毛の愛」をテーマにしたこのチクルスの最後「愛の終焉」への「不吉」な前触れを表現していると考えられる。 また、〈初々しい人たち〉、〈半獣神〉共にテクスチュアは薄くなり、全体的に線的な要素が強まり、旋律線に重きが置かれている。ここで先取りしてチクルス全体の音楽的な繋がりの一例を紹介すると、この線的な要素は3曲ともに共通しており、楽曲冒頭にその特徴が顕著に見られる。どの楽曲の冒頭も、ピアノ前奏は単音でまるで線を描くようであり、そのラインは下行している。しかも、チクルスの進行と共にその下行の度合いは大きくなっており、この下行は主人公たちの待ち受ける「運命」とも、主人公たちの「不安」「絶望」の度合いを表現しているとも考えられる。ほんの一例ではあるが、このようにチクルスは音楽的な繋がりを持たされ、詩のテーマを反映した音楽語法が用いられている。 ドビュッシーのテクストと音楽の照応は《雅やかな宴》第2集において新しい展開を見せるが、これは、ドビュッシーが詩集の近代性を敏感に感じとったからと言える。最後の詩「感傷的な対話」は死して尚、分かり合えない男女の悲劇を扱っており、「死をもって成就する永遠の愛」を掲げたロマン主義の終焉を宣言している。ドビュッシーはこの詩の、脱ロマン、精神の近代性に見合う新しい音楽語法を、この《雅やかな宴》第2集で模索したと考えられる。 前述した通り、第3曲〈感傷的な対話〉の楽曲分析、及び全体のチクルスの音楽的な繋がりに関する考察は「後編」に譲るものとする。}, pages = {141--156}, title = {クロード・ドビュッシー《雅やかな宴》第2集におけるチクルス性 : 前編}, volume = {32}, year = {2020}, yomi = {タカトク, マリ} }