@article{oai:kunion.repo.nii.ac.jp:00002208, author = {坂本, 光太 and Sakamoto, Kota}, journal = {音楽研究 : 大学院研究年報, Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music}, month = {Mar}, note = {《エシャンジュ Échanges》(1973 / 1985)は、ヴィンコ・グロボカール Vinko Globokar(b. 1934)自身のトロンボーン奏者、即興演奏者としての経験を積極的に使用した金管楽器ソロ作品であり、本人が演奏することを前提として作曲された。「この記譜法はパズルに等しい」という本人の言及からも伺えるように、本楽曲の記譜をそのまま演奏することは困難を極める。本稿の目的は、1973年版と1985年版の2種類の楽譜、1978年と1992年の自作自演録音をそれぞれ比較し、グロボカールの作曲者と演奏者の両面を検討することによって、作曲者本人ではない奏者による《エシャンジュ》演奏実践の可能性を呈示することである。 楽譜の分析として、1973年版と1985年版の比較を行った。前者には即興演奏こそ明確に認められていないものの、形式的構造などの様々な実践的アイデアを見いだすことができ、その実演が想定されていることが伺える。それに対し、後者の記譜にはより強固に「音色の研究」という実験精神が前面に押し出され、より理念的であるが、一方でこの作品の即興演奏が認められている。 自作自演録音の分析から、部分的に楽譜から抜粋して演奏する部分が存在しつつも、記譜と演奏実践に大きな乖離があるということで明らかになった。いずれの録音も、演奏全体は即興的でありながら、1973年版の楽譜と同じように、形式的構造で統一感を保っている。また、グロボカールは「音色の研究」のために、楽譜に書かれていない様々な工夫を行い、多彩な音色やそれに伴う楽想を実現している。 以上二つの分析から、《エシャンジュ》は指定されたプリパレーションを用いた音色の研究のための即興的パフォーマンスであるといえる。楽譜は、具体的な演奏内容が示してあるものというよりは、物理的なセッティング(プリパレーション)の交換による即興的パフォーマンスのための「指示書のようなもの」であると考えたほうがよいだろう。演奏実践において重要なことは、音楽的な強い推進力と音の連続性を持って、全体としてのまとまり・形式感・統一感を保ちながら、様々な工夫をもって音色を追求することであり、それは記譜されたシンボルを正確に再現することに優先する。一方で、記譜されたシンボルは完全に無視されるものではなく、演奏者は記譜から全体の構成――例えば1978年の録音のABAのような形式――の着想を得ることできるだろう。本楽曲の演奏は、楽曲全体の音響自体がノイズであるがゆえに漫然としやすい。しかしそれゆえに様々な個別の音響をまとめ、一つの楽曲に統一する構成が必要とされるのであるのである。}, pages = {125--140}, title = {ヴィンコ・グロボカール《エシャンジュ》(1973 / 1985)演奏の考察 : 楽曲とその録音の分析を通して}, volume = {32}, year = {2020}, yomi = {サカモト, コウタ} }