@article{oai:kunion.repo.nii.ac.jp:00002143, author = {内山, 菜津子 and Uchiyama, Natsuko}, journal = {音楽研究 : 大学院研究年報, Ongaku Kenkyu : Journal of Graduate School, Kunitachi College of Music}, month = {Mar}, note = {大正末期から昭和初期にかけて日本の初等音楽科教育に携わっていた小林宗作(1893-1963)は、当時の唱歌指導を中心としていた音楽教育方法の在り方に疑問を感じ、30歳の時にヨーロッパへ留学した。そして、渡欧先のパリにて、J=ダルクローズ(1865-1950)の創案した音楽教育方法「リトミック」に出会い、大きな影響を受けた。二度の留学を経て、小林はJ=ダルクローズの考え方を参考にした独自の教育方法「綜合リズム教育」を提唱し、日本の音楽教育・幼児教育に取り入れようと実践を重ねた。大正新教育運動や太平洋戦争など日本にとって激動の時代であった最中、小林が自由教育や自主性を大切にした教育を実践したこと、そして幼児教育に"リズムによる教育"を導入していこうとしたことの背景に、どのような考えや思想の変化があったのだろうか。本稿では、小林宗作が教師として生きた時代に、その背景にあった日本の教育制度や彼が出会った人々について文献を中心に調査する。その上で小林宗作が生涯を通じて貫いた教育観と、彼の中で変化した思想について考察する。 この研究を進めるにあたり、小林宗作が活動していた時代の社会情勢や教育状況ついて理解するために、独自の年譜を作成した。年譜は明治末期から昭和40年頃までと、かなり長期間にわたるものである。ここでは、小林の生い立ちや経歴だけでなく、時代背景や小林に関わった人物のことについても整理した。その上で小林が、どのような時代や人物との関わりがあったのかをまとめた。また、小林宗作の教師時代を「1.留学前・小学校教師」、「2.第一回目の留学(1923年~1925年)」、「3.留学後」、「4.第二回目の留学(1930年~1931年)」、「5.綜合リズム教育の発表・実践」、「6.トモエ学園での理想的な教育」、「7.国立音楽大学での保育者養成」に分類し、本稿では、その中でも特に多くの人物から影響を受けたと考えられる1期から5期までの小林宗作の教育観について調べ、考察する。 調査し、理解を得たことは次の通りである。 小林宗作の中で変化していったことは、J=ダルクローズのもとでリトミックを実際に学ぶことで、その対象は小学生から幼児へと変化し、幼児教育についても考えるようになったことである。これは、J=ダルクローズの、大学生を対象に提案したリトミックが、子どもの頃から行うことが大切だと感じるようになったことと共通しており、小林はそういった面でもJ=ダルクローズからの影響を多く受けていると考えられる。また、二度の留学によって出会った人々の教育法や考え方に感銘を受け、新しいものを吸収しながら自分の目指している教育法を模索していた。新しいものに出会うたびに変化していた考え方について、二度目の留学後に、「綜合リズム教育」を提唱して自らの考えを明文化していった。 小林宗作の一貫していた考え方とは、おそらく、"いつの時代も教育は子どもの為にあり、子どもが子どもらしく学べる方法で教育する"という考え方ではないか。つまり、子どもの実態に根付いた教育をし、教育に対する情熱を持ち続けたことが小林の教育観の独自性であると考えられる。小林は教師になってすぐに、音楽の授業を受ける子どもの表情から子どもの気持ちに気付き、心から楽しんでいるのかと疑問を持っている。そして、その後新たな教育方法を学びながらも、実際その教育方法が目の前の子どもたちに適しているのかを実践を通して向き合った。小林が、子どものありのままの姿を受け入れた結果、子どもが子どもらしく学べる方法として、最終的に「遊び」の感覚を大切にした主体的な教育、綜合リズム教育が生まれたのである。その眼差しは、当時これだけの教育制度や教育観が変化していた日本で、生涯変わらず持ち続けていた小林の思いであった。}, pages = {269--276}, title = {小林宗作の音楽教育実践の特徴に関する一考察}, volume = {31}, year = {2019}, yomi = {ウチヤマ, ナツコ} }