@article{oai:kunion.repo.nii.ac.jp:00001980, author = {田中, 涼 and Tanaka, Ryo}, journal = {音楽研究 : 大学院研究年報, Ongaku Kenkyu}, month = {Mar}, note = {わが国における西洋音楽の創作、演奏、そしてオーケストラの設置など、幅広く活動した音楽家のひとりが、山田耕筰(1886-1965)である。彼が誕生したのは、「音楽取調掛」や「東京音楽学校」が開設され、国家による西洋音楽の組織的導入が始まった頃の1886(明治19)年であった。まさに彼の人生は、わが国の西洋音楽の揺籃から成長の時期に一致する。設立まもない東京音楽学校で教授された西洋音楽は、とりわけ声楽に関しては、ドイツ語やイタリア語の歌曲が主であった。そのため、当時のわが国では、西洋音楽の書法による日本語歌曲というのは、作曲される機会も演奏される機会も少なかったと考えられる。山田はアメリカ視察から帰国してしばらくすると、日本語による歌曲の創作を試みる。彼は、日本語の歌詞と西洋音楽との関係についての探求を深め、この成果として一連の「歌曲論」が発表された。 特に山田が問題としたのは、ドイツ語やイタリア語では、言葉のアクセントやリズムの捉え方が日本語と大いに異なっているという、本質的な相違であった。日本語の歌詞と西洋音楽の語法とをいかに融合するのかが、日本語による歌曲の創作を続けていくうえで、彼が解決しなくてはならない問題であった。こうした、作曲法的であり美学的とも言える根本的な思索を通して創作された山田の日本語歌曲だが、彼が実際に日本語歌曲を創作する上で用いた作曲語法と、歌曲論で展開した理論とが一致しているかどうかは、今日でも評価の分かれるところである。 本論では、西洋音楽を学んだ日本人作曲家が直面する、日本語の歌詞に西洋音楽を付して音楽作品としての一体性を獲得するという課題に対して、山田が実践した方法を音声学の視点から明らかにした。 山田の歌曲論を考察し、彼の作品を分析したことで、彼が言葉のリズムや高低関係を無視した日本語歌曲に疑問を持ち、日本語の発音を生かして歌曲を創作する方法を研究していたこと、すなわち、歌曲創作において、今日で言う言葉のアクセントやモーラ、リズムを非常に重要視していたことが明らかになった。 特に「からたちの花」には、詩の発音に合わせて拍子を変化させる技法や、詩のアクセントに合わせて歌唱旋律の音高の高低関係を決める技法、詩の各連の末尾に全終止または半終止を置く技法や、詩の1モーラに1音を当てる技法が見られることから、この曲は、彼の歌曲論に忠実に作曲されたものであると言える。}, pages = {83--100}, title = {山田耕筰の歌曲論における言説と創作との関係について}, volume = {30}, year = {2018}, yomi = {タナカ, リョウ} }