@article{oai:kunion.repo.nii.ac.jp:00001891, author = {白石, 美雪 and Shiraishi, Miyuki}, journal = {音楽研究 : 大学院研究年報, Ongaku Kenkyu}, month = {Mar}, note = {本論文は1980年代前半の日本における「ケージ現象」の解明のために、『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』に掲載された署名・無署名の記者・評論家による記事の目録を提示することを目的とする。これら3大紙は現在、インターネット上にデータベースとして記事検索のシステムが公開されているが、今回の目録にあげた多くの記事が検索対象とされないことが明らかになった。本目録は1986年1月1日から1989年12月31日までに発行された3大紙について、縮刷版に収録された東京版の朝刊・夕刊から、ジョン・ケージの名前が本文に含まれる記事すべてを列挙している。その結果、目録には107点の新聞記事をあげることができた。 今回調査した4年間にはケージ自身の著作の翻訳は出版されず、雑誌でのインタビュー等の翻訳も数が少なく、さらに1980年代前半の6年間(前輯論文で扱った期間)とは対照的な状況だった。また、ダニエル・シャルル著『ジョン・ケージ』は1987年に翻訳されたものの、雑誌等でケージをテーマにした論文、エッセイも少なかった。 こうした状況を踏まえて、この時期の新聞記事において、ケージとその音楽がどのようなイメージで語られていたのか、若干の分析を試みた。1980年代前半からの傾向を引き継ぎ、ケージ世代、ポスト・ケージ世代の芸術家の人物紹介でケージの名に触れられている。その中で、武満徹と柴田南雄、武田倫明が1960年代の回想においてケージに言及し、楢崎洋子は三善晃、松村禎三を論じる記事で日本の作曲界が飛躍的に発展を遂げた根拠として、ケージを始めとする前衛音楽のインパクトを挙げている。1960年代にケージが日本の創作史に及ぼした影響の大きさが、客観的事実として認識されるに至ったと指摘できる。また、名前だけが書かれている記事が多い一方、《エトセトラ2》、《ユーロペラ1&2》、《101》、《声のないエッセイ》、《ONE3》といった、この時期を代表する新作とその初演についての記事は途絶えることなく掲載された。すでに大家となったケージの新作に、読者の興味をもっていたと考えられる。東洋との関わりについては、ケージ自らがインタビューで語り、曲名に俳句、連歌、龍安寺といった言葉を用いて発信しているのに対して、ケージと東洋を結びつけて、その視点から積極的に解釈する記事はこの期間、書かれていない。 以上の分析により、1986年からの4年間は80年代前半の傾向を引き継ぎつつ、東洋の影響を受けたアメリカの大作曲家というイメージが定着し、日本への影響も歴史的に位置づけられた時期と捉えることができる。「衝撃」として受容が始まった60年代から「過渡期」としての70年代を経て、80年代にはケージ現象が「深化」の段階に入ったと考えられる。}, pages = {17--32}, title = {1980年代後半の3大新聞にみるジョン・ケージ : 記事目録と分析}, volume = {29}, year = {2017}, yomi = {シライシ, ミユキ} }